残ったもの。
たくさん心に話したい言葉が出ているのに、実際、パソコンに向かうと出てこないよ。。。
でも、少しずつ。
長文になるかもしれないので、休み休み読んでください。
今回このような個展、HANNAまるごとなイベント、それも19周年の6月。
でも、実際に行うとそれはイベントというよりも、生きているという証拠を突き付けるような、まさに
四半世紀育った旭川への挑戦。 それは見事に「感謝」という念に変わった瞬間でもあった…
この3日間、私は彼女がこの世に誕生した瞬間から今日に至るまでの映像が絶え間なく脳内の中でぐるぐるしてました。
時には吐き気がするくらいダークな時間帯もあったり、うれしくて飛び回るくらいの時間帯も数々あったが、
幼少のころから、心が奥深いマンホールのようになっていて、探ることが多々あった子でした。
親ってなにするんだっけ。
心配ももちろんするのだけど、まずは食べさせて…勉強させて…数々の体験させて…。
学校の先生は、何を言うかというと、「ちょっと変わってますよね。つかみどころがないというか…」
だいたい、そうでした。
それはそれで個性でしたから、認めてあげたい部分とあまりにも内側を話してくれないので
何度も泣きながら、苦しくないかい? 大丈夫かい? 何言ってもいいんだよと繰り返すことも多かったかな…
しんどいなー 子供ってもっと無邪気と違うの? なんて自分に言い聞かせていたが、自分も内側ワールド強かったから
大人に、話しない子だねって言われて育ってきたので、「あー 同じか」って時々、DNA感じて、くすっと笑ってしまう。。。
ピアノをやったり、バレエをやったり、一通り、綺麗ごとお稽古に打ち込んでなんとなく優秀な面も見せていて、
受験のある小学校の進学校的なところは、向いていると思いつつもどこか孤独だったのか…って思うことも多々あったかな。
今、振り返るとすべて糧ではあるのだが、ストーリー性で考えるとものすごく深みがある小学校、中学校だったと思います。
子も親も。
おそらく、父親が小学校も中学校もPTA会長をしていて、そのあたりも油っぽかったのではないでしょうか…
3日間終わった夜に打ち上げで、マネージャー含め、4人で食事に行ったのですが、PTA会長話をしたのです。
父親「パパはあの頃、何もなくて…特になくて…ホント何様で会長をやっていて、歴代の会長は役職のすごい人ばかりで、
会長依頼の話の時に、すごくすごく戸惑い、まわりから何様?的に思われているんだろうなぁの思いでやってたよ…」
そう、私達は生まれも育ちも違う街から流れてきたのでハンディがかなりありました。
シラン「……………」
泣いてました。
あの頃から、何様シランがなんとなく誕生するようなストーリーの始まりになっていたのかしら。
そう思った夜でした。 初代何様?の娘?だったのね。わたし・・・パパもおんなじ思いをしていたの?
「教育はブランド?」
私は、そう思う心と反骨心と入り混じった子育てでした。
親である以上、優秀な面が育ってくるとあんな学校に入れてあげたい!こんな学校が伸びるのでは?って模索しだします。
情報交換も親同士でしていきます。
でも、、、 私が行くわけじゃないよね?ってな感覚にもなってきました。
私の父親は教育者の家庭で育っているガチガチな教育環境でしたので、私が誕生し、ある一定の時期から
机の前で勉強勉強でした。 私が少しでも何か他に気を取られていると、とても不機嫌でした。
冬は寒い中、3歳からスピードスケートでした。 ストップウォッチの世界で雪の深々と降る中、父親と歩いて
スケートリンクのセンターに通うのが日課で、だから。。。 父親が帰ってくると憂鬱で憂鬱で。。。
ある日、勉強をすべて放棄する。
「わたし確立が始まったのです。」 あとは、ご想像におまかせします。笑
でもね。 娘の教育で気づいたこと。
親ってやはり熱心になるのですよ。
あんなに熱い父親の指導塾を放棄し、それこそ呪い、勉強という訳わからない魔物に
取り付かれ、、、 しがらみをすべて外した私が、、、、
娘の教育に勉強に一喜一憂し、「ブランド化」してない?って。
父親と同じことしてない?って気づくわけです。
ある時、だいぶ子育てがひと段落した時に父と笑いました。
お前もパパと同じだったんだよってね。
15歳で家を出るのは正解であったと思います。
それはそれは、お金もかかりました。 でもしてあげれることはもう唯一それしかなく、私の思った通りの路線に
行かせることではなく、本人の芽を摘むことではなく、尊重し、受け入れる。
個性もすべて受け入れる。
あなたは、あなたでいいんだよって。
中学を卒業し、好きなファッションもとことんしてメイクもして本当に自分を演出してました。
高校に行くまでの合間、東京に出て卒業祝いを満喫しましたが、
竹下通ではたくさんの人に声をかけられ、スナップを撮られモデル気取りでしたね。
良い思い出です。
「反抗期」
よく成長期に見られる反抗期って目に見えるものを想像しがちですが、まったく娘にはなく、
ちょっとそこが心配だったり、「無」ってどうなの?って自分に問いかけたり、
掴みづらいのが居心地悪くて、ママ友あたりが言う「くそばばぁ扱いだよ!まったく」って
顔をしかめて言うセリフが、意外にうらやましくて、、、ないものねだり? って思うことが多々ありました。
高校は寮生活でしたから、預けておけば安心ではある反面、日々かかる交通費やお昼代、その他、参考書など
経費をまったく言ってくれなく、送金はしていたものの、現状はかなりきびしかったようです。
お昼はシリアルのみ。 りんごのみ。 柿のみ。 みんな食堂で食べたり飲んだりしているのに、
娘はまったく動じず、カバンから無造作にりんごを出すだけ。 ナイフも持って行ったとか。
それが、なんだか愛くるしいように見えたようで、ランチを食べない女的な感じでお昼問題は、高校に伺うと
よく尋ねられました。
バイトがしたいと言われましたが、進学校なので無理です。
バイトがしたいから、高校を辞める?っていうような大げさな話もしたことを思い出します。
とりあえず、高校は卒業しようよで収まりましたが。
そんな時、警察から電話がありました。
これが、初めてで、、、最初で最後の反抗期だったと思うのですが。。。
「ママごめん」
・・・・・ 私は何よりも、罪を犯したことよりも、本当に電話口の人が警察官なのかどうかが心配で。
正真正銘の警察官だったのですが、
唯一言えたのが、、、、
「さくら!見事によくやってくれたね! 初めてだね!こういうの。 かっこいいじゃん」…でした。
世間からにしたら、ちょっとルール違反のようなことでしたが、よーく考えると、、、たいしたことではありません。
私にしたら、その罪に足を入れ、世間一般的な反抗期の瞬間のように思えて、いっぱしな感じにとらえることができました。
振り返ると、意外に思い出、出てきますね。 私の子育ては薄い感じがしていたのですが、、、、振り返るににちょうど良いです。
良いきっかけをこの初個展は与えてくれました。
「残ったもの」
きっと… 支える気持ちと受け入れる気持ちでした。
そこは間違いないです。
「残ったもの」 また、続きを書きたい気分です。
私の脳内はまだぐるぐるいろんな言葉が入り混じってます。
まずは、、、 まずは、ひとまず。
長々とすみませんでした。 (^-^)
読んでくれてありがとうございます~。